熱い雨

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 この日、と決めた日は激しい雨が朝から降り止まなかった。この激しい雨は、彼女の涙に似ている。滅多なことでは泣き顔を見せない女性だったけれど、その分細い体に負った労苦と溜め込んだ感情を吐き出すときにはまるでその場が洪水になりそうなほど激しく泣いた。

 今も泣いているだろうな、エマ。

そう、この雨は彼女の涙だ。彼女が無残な死に方をしてからずっと、この雨は降り続いている。生きていた時、彼女は晴れの日が好きだった。青い空と、流れる白い雲を見上げて微笑む姿はまるで日の光を喜んで浴びる花のようだった。

 美しい花に引き寄せられる虫がいるのは仕方のないことだ。小さな虫程度なら、男が払い落としてやれば済む話だった。男には彼女の兄としての立場があって、それは虫達を追い払うには有効なものだったのだから。けれど虫よりも大きなものが、花を乱暴に摘み取ってしまう。その時、男は無力だった。

 腕の中に抱いた時は夜の闇の中で一層美しく、男のためだけに咲いて見せてくれた女性。兄弟としての立場を乗り越えて、それでも一緒に生きると約束してくれた大切な人。彼女は死んだ。殺されたのだ。男以外の誰にも触れさせないと誓った体を無理やり開かされ、何人もの獣に何度も陵辱された。その最中、彼女は泣きながら何度男の名前を叫んだだろう。煩いと頬を乱暴に張られながら、それでも男に助けを求めたに違いない。

 だが男はその悲鳴に気付かなかった。彼女が帰らないことに気付いて、ボロボロになった彼女を見つけ出すそのときまで、男は彼女がどんな目に遭っているのか、何も知らなかった。

 男が見つけたとき、彼女は既に息をしていなかった。口から溢れ出る血を見て、男は彼女が自ら舌を噛み切ったことを理解した。引き裂かれた衣服と、白い肌に残る乱暴された痕。頬に残る涙の跡。硬直した手の中にしっかりと握り締められていたのは、彼が修行に出ていた工房で、初めて自分の手だけで細工した不恰好な髪飾りだった。

 彼女を殺した連中はすぐに分かった。だがこの土地を治める貴領侯にそれを訴え出たところで何にもならないことを、男も、男の父親も知っていた。だから彼女は急な病と称して墓に埋められ、それきり、街の人間は努めて彼女のことを忘れようとした。運が悪かったのだ。言葉にせずともそう思った家は多かっただろう。年頃の娘がいる家ならばなおさらのことだ。貴領侯の若君が王様顔で引き連れているごろつきどもが、商売女では飽き足らずに街の娘に手を出すことは初めてではなかった。父親である貴領侯も息子の振る舞いを見て見ぬふりをしている。

「エマのことは忘れろ。あの娘は病気だったんだ。誰にも直せねぇ病気で死んだ。オルドス、それが本当のことだ」

 何も知らない父はそう言うが、そんな詭弁で納得できるわけがない。もし兄としての立場だけだったとしても、妹の身に降りかかったこの出来事を偽りですりかえることなど許しがたい。まして、彼女は男の恋人だった。将来を約束した仲だったのだ。

 無残に手折られた花を見て、咎める者が誰もいないのであれば、自身が動く以外に方法があるだろうか。妹を葬ったその日から、男の体には火が点っている。それは熱を持って男の全身を支配していた。

 復讐――。

その火はこの雨の中でも消えることはない。そうして男は、今朝から執拗に妹を殺した男達を追いかけているのだ。こんな激しい雨だ。街の通りを歩く人間は少ない。彼女を殺した奴らも、午前中は屋敷の中で大人しくしていた。けれど屋敷の中で大人しく一日を過ごすなんてことをもう何年もしたことがない奴らだ。午後には我慢できずに屋敷を出てくることを男は確信していた。そして男の考えは当たっていた。奴らはのこのこと屋敷を出てきて、雨の中でもかろうじて開いていた店を回っては中傷し、暴れ、それが当然のような振る舞いを繰り返していた。

 男は待った。すぐにでも飛び出して行って、手にしている鑿で首を突いてやりたいと思った。彼女が最後まで握っていた髪飾りを彫り上げた鑿ですぐにでも。けれど男は辛抱強く待った。その方が、体に点った火が大きくなる。そして雨の中でも冷えない男の体を、一層熱くさせる瞬間がやってきたのだ。

 奴らは何がおかしいのか、笑い合いながら路地に入っていった。いま追えば誰にも邪魔されることなくこの手を振り下ろすことができる。相手が何人いようとも、全員殺してやるのだ。それができることを、男は少しも疑っていなかった。だが男が一歩踏み出した瞬間に邪魔が入った。

「……やめておけ。気配を消すことも、殺気を隠すこともできない奴が闇に紛れたところで、意味がない」

 静かに、けれど雨音の中をしっかりと通り抜ける低い声が響いて、男は身を震わせた。幸い高めていた緊張は切れることなく、余計に男の神経を尖らせた。男は相手を射抜くようなつもりで首をめぐらせ、背後に立っていた人間を睨み付けた。

「余計なことだろうがな。奴らが路地に入ったのは何故だと思う? 安全を確保するのなら大通りを行く方が良い。お前は奴らをつけているつもりだったのだろうが、奴らがお前につけさせていたというのが正しい。路地にお前をおびきよせようとしているのだ」

 落ち着いた声音と、どこか上品さを漂わせる言葉遣い。けれど声の主はそれほど年をとっているようには感じられなかった。むしろ男よりも若いように思われる。思われる、というのは目の前に立つ人間が汚れたローブを目深に被っていて口元しか見せていないせいだ。

「お前は……何だ」

 男は探るようにして雨に濡れているローブ姿の人間を上から下まで眺めた。背は男と同じくらいだった。全身を覆うローブはすでにこの雨で重くなるほどじっとりと濡れている。だいぶ色あせてはいるけれど、深い緑のローブだった。

「ただの通りすがりだ」

 張りはあるが、感情の読めない声音に、敏感になりすぎている男の感情は容易に揺すぶられる。

「なら、放っておいてくれ。あいつらは……妹の仇なんだ」

 そしてその仇をとる人間は、男しかいないのだ。言外に含めた男の想いに気付いたのか、ローブの下から視線が向けられる。そうしてしばらく男を見つめていたかと思うと、相手は何かを諦めるようにして小さく溜息をついた。

「……それならばなおのこと……と言いたいが。まぁ、好きにするがいい」

 ならばなおのこと。ならばなおのこと慎重に、確実に相手を殺せるように考えて準備をするべきではないのかと、そう言うつもりだったのだろう。

「頭領? 何やってんだ、そんなとこで」

 男が何か言い返すよりも前に、今度はローブを被っている相手の方に別の人間から声がかかった。道が折れていて、男には声をかけた方の人間は見えなかった。

「いま行く。邪魔したな。だが、奴らもまだしばらくは路地でお前を待っているだろう」

 男には見えない道の先へ首を巡らせ、雨を含んだローブを揺らして立ち去ろうとした相手を、男は思わず呼び止めていた。

「……待ってくれ!」

 叫んですぐに男は自問した。何故時間も無いのに呼び止めたりしたのだ、と。早くしなければ、辛抱して待っていた奴らを殺す機会を失ってしまうというのに。

「何だ? 怖気づいたか」

 立ち止まった相手の、からかうでもない淡々とした口調。それが余計気に障って、男は反射的に怒鳴り返した。

「違う!」

 怖気づくなど、ありえない。例え相手の言うように、あいつらがあえて男につけさせていて、今も路地で男を待っているのだとしても、そこに飛び込んでいくことに迷いはない。だが、この鑿ひとつで確実に全員を殺せるのかと言えば、首を横に振らざるを得ないだろう。この身の熱は心地よいけれど、それに振り回されることはあってはいけない。

「……犬死にしたくない。絶対に、確実にあいつら全員を殺したいんだ」

 男は腹の底から搾り出すようにしてそう訴えた。雨音がその掠れた声を飾って、余計陰鬱に聞こえた。

「……それで?」
「どうすれば、あいつらを殺せる?」

 全員。それもなるべくなら、最大の恐怖と苦痛を味合わせて。

「何故それを俺に訊く?」

 確かにそうだ。ただの通りすがりに聞くようなことではない。けれど――。

「知っているのではないかと思ったから」

 ただ殺すだけではなく、その他のことをなにもかも知っているような、そんな気がしたのだ。だが答えられた内容は男の期待している方法とは一番かけ離れたものだった。

「……一番良い方法は、時に裁きを任せることだ」

 それはいるかいないかも分からない神に裁きを願うのと同じことだ。彼女の叫びを聞いても、動くことの無かった大いなる意思に。

「そんな生温い方法では駄目だ!」

 男がいつまでたっても彼女を忘れることがないように、悪行をなしたその時に罰を下されなかった者のことなど止まることのない時が裁いてくれるはずが無い。

「生温い……か。では、確実に相手を殺す技術を身につけることだな。復讐心だけで事は運ばない」

 冷たく言われて、彼女が死んでから初めて男の中に点っていた火が揺れた。技術がないといわれれば反論はできない。だが、復讐心だけで事は運ばないというのはどうだろうか。

「何処へ行けば、その技術が得られる?」

 男が問うと、ローブの奥から短く答えが返された。

「何処でも」
「何処でも?」

 問い返した男に、深緑のローブが頷いた。

「闇のある場所なら何処でも、闇の稼業で働く者がいる。心意気を買われるか、それとも相応の金を払えば技術が得られるだろう」

 相応の金、とはどの程度のものなのだろうか。いくら払おうと金は惜しくないが、それに見合った技術を本当に得られるのだろうか。男の疑念をよそに、ローブの相手は淡々と付け加えた。

「闇の稼業に足を踏み入れれば、二度と抜け出すことはできない。慎重に考えることだ」
「……お前は? お前は闇の職に付いているのか?」

 男が尋ねると、ローブの相手は少し笑ったようだった。

「……日向の、とは言えないが。お前が目指しているような類の闇の稼業でもないな」

 そう答えると、雨に濡れたローブの下で右腕を少し動かして剣の柄を見せる仕草をした。

「俺は傭兵だ」
「傭兵……」

 確かにこの街でもちらほらと見かけることはあったが、彼らは常に男とは関係のない位置にいて、そしていずれは街を去っていった。すれ違うことはあっても、話したことはなかった存在だ。

「ここには仕事を得るために寄っただけだ。幸い雇い主が見つかったからな、明日にはここを出る」

 ではこの相手も街から街へと流れていく存在なのだ。

「さっき、頭領……と呼ばれていたな」

 男が指摘すると、相手は小さく頷いた。

「少ないが、仲間がいる」

 少ない、と言ってもどの程度のものなのだろうか。その中での頭領、という立場が一体どれほどの強さになるのか、男には想像もつかない。男の困惑を見越してか、ローブの相手は静かに言った。

「俺なら気配を消す方法、殺気を隠す方法、確実に相手の心の臓を狙う方法も教えてやれる。だが、それには俺についてここを離れる必要がある」

 つまりは、奴らを殺すことを先延ばしにしなければならないと言うのだろう。今日の激しい彼女の涙を見なかったことにしろと。

「早く決めろ。俺も長くお前に付き合っている暇はないし、獲物を逃がすことにもなるぞ」

 急かされて、男は標的の入っていった路地を振り返った。姿は勿論見えない。もう行ってしまったのか、それとも相手の言うようにまだ男を待っているだろうか。気付かれていたとは思いたくない。けれど、もしひとりでも仕留め損ねれば、男以外に彼女の仇を討つ人間はいないのだ。

「……必ず、あいつらを殺せるようにしてくれるのか」
「必ずとは言えないな。実力をつけられない奴は自然に脱落する。それが俺達の世界だ」

 今、男の立っている世界とは別の世界。怖気づくのか、と男は自問した。二度とこの街に、世界に戻れなくなる。それを知って、踏み入ることを戸惑うのか、と。そんな問いを男は笑った。迷うことなどない。この体の熱が教えてくれているように、答えは決まっている。

「……連れて行ってくれ」

 その先がどんな世界であろうとも、男には何の影響もない。男にとって唯一意味のあった“彼女のいた世界”は無くなり、あとはみな同じなのだ。すべて“彼女のいない世界”。恐れることも、悲しむこともない。勿論、喜ぶことだってないのだ。

「名前は?」
「オルドス」

 偽ることなく答えると、相手は雨に濡れるのにも構わず、目深に被っていたローブを取り払った。ローブの下から現れた顔は若く、そして驚くほど整っていた。黒い髪。そしてそれと同じ、いやより深い黒の瞳。その瞳が男に向けられると、不思議と目を逸らしてはいけないという思いに駆られて、男はしっかりとその瞳を見返した。

「……良いだろう、オルドス。俺はザード。お前が付いて来られるというならば、俺はお前に、お前の望む技術と力を与えてやる」

 引き込まれそうな黒。そしてやはりどこか優雅な品のある声。年下ながら、何か得体の知れないものを相手にしているような、そんな気分にさせられる。男の体は熱を持った。それは復讐の火とはまた別の、けれどやはり同じような興奮だった。

「付いて行ってやるさ。何があろうとも……」

 例え相手が神でも魔でも。答えると黒い瞳が微かに笑った。それは黒い髪と激しい雨音と相まって、やはり神というよりは魔だった。

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